第37話|温かいスープの匂い——食べられない日の支え方

第37話|温かいスープの匂い——食べられない日の支え方

第37話|温かいスープの匂い——食べられない日の支え方

食事のかたちが変わっていった頃

その頃から、
母の食事は少しずつ形を変えていきました。

量が減った、というよりも、
「食べられるもの」が限られていった、
というほうが近かったかもしれません。

ごはんを一口、
お味噌汁を数口。
それだけで「今日はもういい」と首を振る日が増えていきました。

無理にすすめることはしませんでした。
「少しでも食べたほうがいい」と分かっていても、
口に運ぶたびに負担になる様子を見ていると、
その一言を飲み込むしかありませんでした。


台所に残る、温かい時間

代わりに、
鍋の中でゆっくり温めたスープの匂いが、
台所に広がるようになりました。

野菜を細かく刻んだもの。
味付けは薄く、
母が「これなら」と言ってくれた味。

それを、
一口、また一口と、
時間をかけて飲む。

食事というより、
体を温めるための時間のようでした。


言葉より、そばにいること

「食べられなくなった」という事実よりも、
その場に流れる静けさのほうが、
私には強く残っています。

湯気の向こうで、
母が目を閉じて、
ゆっくり息を整えている姿。

会話はほとんどなく、
ただ同じ空間にいるだけ。

以前なら、
「もう少し食べようか」
「これもあるよ」と
声をかけていたかもしれません。

でもこの頃には、
食べさせることよりも、そばにいることのほうが
大切だと感じるようになっていました。

鍋を火から下ろし、
蓋を閉める音。

それだけで、
「今日はここまで」という合図が
自然に共有されていました。


失われていないもの

食事の形は変わっても、
母と過ごす時間そのものは、
失われていませんでした。

温かいスープの匂いが残る台所で、
私はそのことを、
静かに確かめていたのだと思います。

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