第36話|風の冷たさが変わった日——ふと感じた胸のざわつき

第36話|風の冷たさが変わった日——ふと感じた胸のざわつき

第36話|風の冷たさが変わった日——ふと感じた胸のざわつき

今年の冬は、
例年より少しだけ早く寒さが深まっていったように感じました。

朝、玄関の戸を開けた瞬間に入り込む冷たい空気。
いつもより鋭く、
肌に触れたあともしばらくそこに残るような冷たさでした。

その風に触れたとき、
なぜか胸の奥で小さく波が立ったことを
今でも覚えています。

理由があるわけではありません。
ただの季節の変わり目。
ただの冬の入口。

それなのに、
その冷たさは少しだけ“違う”ように感じられました。


母の歩き方が、ゆっくりになった

この頃の母は、
立ち上がるまでにひと呼吸置くようになり、
歩幅も少し狭くなっていました。

「ごめんね、ちょっとゆっくりね」

そう言いながら私の腕を軽くつかむ母の手は、
以前より細く、
体重の預け方もわずかに重くなっていました。

見慣れた動作なのに、
なぜかその一瞬だけ、
心の奥のどこかがふっとざわつく——
そんな感覚がありました。


生活の中の“間(ま)”が、少し変わる

家の中で過ごす時間は
これまでと変わらず穏やかでしたが、
ところどころに小さな“間”が生まれました。

声をかけてから返事が返ってくるまでの間。
お茶を飲むまでの間。
ベッドから立ち上がるまでの間。

一つひとつは大きな変化ではありません。
でも、その小さな間が
どこか遠くへ伸びていく細い糸のように思えて、
胸の奥がきゅっとしていました。


「寒くなると、体が思うように動かないわね」

母はそう言って笑いました。

その笑顔は、
以前と変わらない柔らかさを持っていましたが、
その表情の奥に
言葉にできない疲れがにじむようにも見えました。

その一瞬、
胸の中に小さく影が落ちました。

でも私はその影を
深刻に捉えないようにしていました。

季節のせい。
その日の気分のせい。
寒さに慣れていないせい。

どれも理由としては十分で、
そう思うことで
心を守っていたのかもしれません。


“今日と同じ明日” が少しだけ遠く感じた日

冬の風が変わったように感じたあの日——
それは、
母の生活がまたひとつ節目に入ったという合図だったのかもしれません。

明確なできごとがあったわけではないのに、
心の深いところで
「これまでとは違う時間が始まる」
と、静かに知らせを受け取ったような気がしました。

けれどその知らせもまた、
焦りではなく、
ただ淡く胸に宿るだけのものでした。

この日を境に、
私は母の一日の様子を
いつもより少し丁寧に見つめるようになりました。

第35話|冬の気配と小さな後退——“できていたこと”が減っていく日々
第37話|温かいスープの匂い——食べられない日の支え方