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第35話|冬の気配と小さな後退——“できていたこと”が減っていく日々
庭の柿を収穫し、
近所や親戚に配っていたあの日から——
季節がひとつ、静かに進んでいきました。
冬の気配が濃くなり始めた頃、
母の様子にもまた、
ゆっくりとした変化が見え始めました。
以前なら軽やかにこなしていた動作が、
少しずつ、時間をかけてもできなくなる。
そんな日が増えていったのです。
「午前中は大丈夫。でも、午後は体が動かないのよ」
朝のうちは洗濯物に手を伸ばしたり、
新聞を丁寧に読む姿も見られました。
けれど昼を過ぎる頃には、
椅子から立ち上がるまでに
小さな間が生まれるようになりました。
食事の準備を手伝おうとしても、
包丁を持った手が途中で止まり、
「あなたがやってね」と静かに言う日が増えました。
午後になると、
母の動きは目に見えて細くなっていきます。
歩くというより、
“力を貸してもらって前に進む”という感じに近い。
その変化は、
何か特別な出来事があったわけではなく、
本当に静かに、音もなく訪れていました。
食べる量が、また少し減っていった
以前は少しでも食べようと
努力していた母でしたが、
この頃からは
「食べたいものが浮かばない」と言うようになりました。
味噌汁を数口、
おかずをひとつまみ。
そんな日が続くと、
体力よりも先に気力が萎んでいくようにも見えました。
それでも母は、
「大丈夫よ、無理すれば食べられるから」
と笑ってみせることがありました。
けれど、
その笑顔の奥にある疲労の影は、
隠しきれないように感じました。
“後退”というより、“冬に入る”ような変化
母の変化を言葉にすれば
「できなくなったことが増えた」となるのですが、
実際にそばで見ている感覚は、
もっと穏やかなものでした。
木々が秋から冬へ向かって
ゆっくり葉を落としていくように、
母もまた、
生活の中で少しずつ
持っていた力を手放していっただけのように見えたのです。
それは悲しみとは少し違い、
自然の流れに触れているような
不思議な静けさがありました。
変化に気づきながらも、「まだ大丈夫」と思っていた
午後に動けない日が増えても、
食べる量が減っても、
心のどこかで私たちは
“まだ大丈夫”
と思っていました。
なぜかといえば、
母がまだ家の中のことを気にかけ、
行事を楽しみにし、
未来の話をする日もあったから。
できることが減っていく。
でも、母の中には確かに
“生活を続けたい”という灯りが残っていました。
その灯りがある限り、
これらの変化は
“後退” という言葉とは少し違う気がしていたのです。
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