第9話|介護保険の申請——制度の言葉と現実とのあいだで

第9話|介護保険の申請——制度の言葉と現実とのあいだで

第9話|介護保険の申請——制度の言葉と現実とのあいだで

在宅を選んだ瞬間から始まった“新しい現実”

在宅で支えていく——
そう決めた途端、私たち姉妹はすぐに新しい現実と向き合うことになりました。

病院の緊張感とは違い、
もっと生活の手触りに近いところでぶつかる“壁”のようなもの。

その最初のひとつが、
介護保険の申請でした。


制度の言葉だけが頭をすり抜けていく日

当時、介護保険の申請については、
退院までの間に病院から何かしら案内があるものだと、
どこかで当然のように思っていました。

けれど実際には、
具体的な説明や提案があるわけでもなく、
気がつけば退院の日を迎えていました。

そもそも、母の病気がわかった頃、
“介護保険を使う”という発想そのものが
私たちの中にまだありませんでした。

退院の準備と、
在宅生活に向けての家の片づけ。
わずか2週間しかない入院期間の中で、
私たち姉妹は毎日、
片づけと病院との往復に追われていました。

制度について考える余白など、
どこにもありませんでした。

そんな慌ただしさの中で、ようやく気持ちが落ち着き、
「この先どう支えていけばいいのか」と
少しだけ未来を見つめられるようになったとき、
初めて“介護保険”という言葉が
ゆっくりと頭の中で形を持ち始めました。

そこで調べ始めて飛び込んできたのが——

要介護認定。
主治医意見書。
訪問調査。
ケアマネ。

どれも聞き慣れない言葉ばかりで、
なのにどれも“大切”だと書かれているもの。

読み進めるほど、
制度の仕組みだけが先へ進み、
私たちの気持ちが
少し遅れてその後ろを歩いていくような、
そんな不思議な感覚がありました。

まるで、
周りだけが先に動き出し、
当事者である私たちが
そっと取り残されているようでした。

未来の形がまだ見えないまま、
そっと胸の奥に落ちていく静かな戸惑いが、
あの日には確かにありました。


「簡単な手続き」のはずなのに、重く感じた理由

介護保険の申請自体は、
市役所の窓口に行き、必要書類を記入するだけです。

それなのに、
その「だけ」が重く感じるほど、心が追いついていませんでした。

母の状態を説明すること。
これからの生活を想像すること。
そして申請すること自体が、
“母は助けが必要な状態なんだ”
と改めて突きつけてくるようで、
胸の奥がきゅっと締めつけられました。


もっと大きな壁は「母の気持ち」だった

制度の難しさ以上に、
私たちが直面した一番の壁は、
母自身の気持ちでした。

介護保険の話題を出すたびに
「まだいいよ」
「そんなに弱ってないから」
と、静かに拒む母。

病気だという現実を飲み込めずにいたこと。
“支えられる側になる”ということを受け止めきれなかったこと。

そのどちらも、言葉にせずとも伝わってきました。

母が小さくため息をついたとき、
その声には
これまで聞いたことのない弱さと戸惑いが混じっていました。


きっかけは、ふとした友人との再会だった

そんな状況が変わったのは、
ある日の午前中。
母が突然、
「古い友だちに写真を届けに行きたい」
と言い出したのがきっかけでした。

そのご婦人は母より5歳上。
久しぶりの再会でしたが、
とてもはつらつと、若々しく見えました。

その方がふと明るく言いました。

「私ね、デイケアに週1回行ってるの。
 楽しいわよ。あなたも行ってみたら?」

母は驚いたようにしていましたが、
その言葉を否定することもありませんでした。

家に帰る車の中で、
母はぽつりとつぶやきました。

「……行きたくなったら、行くのもいいかもしれないね」

その小さな言葉を逃さず、
私はゆっくりと返しました。

「じゃあ、お母さんが行きたくなったときに困らないように、
介護保険の申請だけしておこうよ。
使うかどうかは、あとで決めればいいから。」

しばらく沈黙がありました。
そのあと、母は小さく息を吸い込む音を立てて、
静かに言いました。

「……そうね。お願いしていいよ。」

その声には、
母らしい強さと、
心の奥で受け止めようとしている弱さと、
ほんの少しの安心が混ざっていました。


その日の午後、市役所へ向かった

母の了承を得たその日の午後、
私はすぐに市役所へ向かいました。

母のための準備をひとつ、
確実に進めることができた。

そんな小さな安堵が、
帰り道の空気を少しだけ軽くしてくれました。


制度に頼ることは“弱さ”ではなく、母を守る選択だった

介護保険の申請は、
ただの事務手続きではありませんでした。

それは、
“母の望む暮らしを、そのまま続けられるようにするための準備”
でもあったのだと、今では感じます。

支えてもらうということ。
制度を使うということ。
誰かの力を借りるということ。

どれも決して弱さではなく、
母の生活を守るために必要な道でした。


申請から始まった、新しい支えの体制

在宅を選んだ私たちにとって、
介護保険の申請は
「支えてもらう準備を整える」最初の扉 でした。

まだ知らないことだらけで、
これからも戸惑いは続いていくのだと思います。

それでも、母の「家で過ごしたい」という想いを叶えるために、
ひとつずつ扉を開けていくしかないのだと感じました。

第8話|在宅か施設か —— 家族で考えた“これからの暮らし方”
第10話|ケ アマネとの出会い —— “支援者が増える”という安心