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第31話|収穫が終わったあと——静かに始まった変化
柿と柚子の収穫が終わり、
家の中にひと区切りついたような空気が流れていました。
母は充実した表情で、
仕分けを終えた柚子の段ボール箱を見つめていました。
それは、ほんの少し前までの母には見られなかった
いきいきとした満足の笑顔でした。
「今年もちゃんとできたね」
そうつぶやいた母の声は、
どこか誇らしげでした。
その姿が嬉しくて、
私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていました。
けれど——
その穏やかな余韻は長くは続きませんでした。
楽しみな行事が終わったあとに訪れた静けさ
収穫作業がひと段落した翌日、
母はいつもよりゆっくりと起きてきました。
「ちょっと疲れちゃっただけよ」
そう笑っていましたが、
朝食の量はこれまでよりもさらに少なく、
お茶を飲む手がどこか重たそうに見えました。
久しぶりに張り切って動いた反動なのか、
季節の寒さが一気に深まったせいなのか。
そのときは深く考えず、
「ゆっくりすれば元気になるだろう」
と自然に思っていました。
でも、その“ゆっくり”は
思っていたよりも長く続いたのです。
午後になると、動けなくなる
数日後、
午前中はなんとか洗濯物を干したり、
新聞に目を通したりしているものの、
午後になると動きが極端に少なくなりました。
こたつに入ったまま動かない時間が増え、
声をかけても
返事をするまでに少し間があくことがありました。
以前なら「午後に備えて休む」という
前向きな休息のような雰囲気がありましたが、
このときの母の休み方は少し違っていました。
“休んでいる”というより、
“力が入らない”
というような静けさ。
その違いは言葉にはできないけれど、
すぐ近くで見ていれば
はっきりと感じられるものでした。
食事量の低下——最初に変わるのは“食べる”という行為
そして、最も分かりやすく変化が現れたのが食事でした。
以前は
「もう少し食べてみるね」
とゆっくりでも箸を進めていたのに、
この頃から
一口、また一口と
食べる量が日に日に減っていきました。
味噌汁の具が半分残る。
ご飯を数口だけで終える。
みかんもひと房でやめてしまう。
食事は母の生活リズムを映す鏡のような存在でした。
その量が減っていくことは、
生活全体が少しずつ沈んでいくような感覚でもありました。
“何かが違う”という気づきが芽生えた頃
まだ深刻に捉えるほどではない。
でも、確かに何かが変わり始めている。
その“気配”を感じていたのが、この時期でした。
生活の輪郭が少しずつ薄くなっていくような、
静かで、言葉にならない変化。
母自身も
「ちょっと疲れちゃって…」
と小さな声で言うことが増えました。
その“疲れ”が
ただの疲労なのか、
季節の寒さなのか、
薬の影響なのか、
あるいは——
その答えはまだ分かりませんでしたが、
私はこの頃から
胸の奥に小さな不安を抱えるようになりました。
まるで、
柚子の収穫を頂点に
季節が静かに傾き始めたかのように。

