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第29話|在宅生活の現在地——“ここまで来た”と思えた静かな夜
在宅での生活が始まってからの数か月。
慌ただしかった最初の頃に比べて、
家の中の空気はずいぶんと落ち着いてきました。
母の一日の流れはゆるやかに整い、
私たち姉妹の動き方も
そのリズムに合わせるように自然と形を変えていました。
特別な出来事があったわけではありません。
けれど、この生活を続けてきて
初めて“現在地”のようなものを
静かに感じられた夜がありました。
夕食後の静けさが教えてくれたこと
その日の母は、
夕食を少しだけ口にし、
麦茶を飲むと
「今日はもう休もうかな」と言って
ゆっくり自室へ向かっていきました。
台所を片づけ、
電気をひとつずつ落としていくと、
家の中がふわりと暗さをまといました。
リビングのソファに腰を下ろしたとき、
押し込めていた疲れがようやく
体の表面に出てきたようでした。
呼吸をひとつ吐き出した瞬間、
胸の奥に静かに浮かんできた言葉がありました。
“ここまで来たんだな”
そのひとことが、
この数か月の時間をそっと包み込んでいくようでした。
積み重ねてきた日々が、背景のように広がっていく
退院したばかりの頃は、
すべてが手探りでした。
薬の管理、
通院の段取り、
母の体調の変化、
姉妹間の役割分担。
一日一日を乗り越えることで精一杯で、
先の未来はまるで見えませんでした。
けれど今——
生活は静かに形を作り、
在宅での毎日は
“私たちの暮らし”として息づいていました。
それは大きな変化ではなく、
気づけばそこにあったような
やわらかい落ち着きでした。
母の寝息が家を包む夜
母の部屋から
規則正しい寝息が聞こえていました。
その音は、
私の心の奥の緊張をそっとほどき、
この家全体に
あたたかな安心を広げていくようでした。
今日を無事に終えたこと。
明日もまた、母らしく一日を過ごせるかもしれないこと。
そのほんの小さな事実が、
胸の奥に深く沁みていきました。
大きな出来事ではないのに、
この夜の静けさは
どこか特別なものに感じられました。
未来を考える前に、“今”を感じるということ
在宅生活には、
絶えず小さな緊張がつきまといます。
急な体調の変化、
薬が合わなくなるかもしれない不安、
この生活がいつまで続くのか分からないこと。
それでもこの夜、
私はほんの少しだけ肩の力が抜けました。
“未来”をどうにかしようとするのではなく、
“今”をていねいに感じること。
その大切さを
母の寝息がそっと教えてくれた気がしました。
そして気づいたのです。
これが私たちの、
在宅生活の“現在地”なのだということを。

