第28話|帰り道の夕暮れ——少しだけ前を向けた日のこと

第28話|帰り道の夕暮れ——少しだけ前を向けた日のこと

第28話|帰り道の夕暮れ——少しだけ前を向けた日のこと

病院を出たのは、
太陽が傾きはじめる頃でした。

西に沈みかけた光が駐車場に長い影を落とし、
車に乗り込む母の背中を
やわらかく包んでいました。

診察で聞いた言葉は
良くも悪くもない「現状維持」。

治療を続けるかどうか。
副作用のこと。
これからの生活のこと。

重いテーマが並んでいたはずなのに、
車に乗った母の横顔は
どこか少しだけ晴れやかでした。


「続けられるだけでありがたいわね」

車が動き出してすぐ、
母が静かに言いました。

「続けられるだけでありがたいわね。」

不思議な言葉でした。
治療の負担は軽くないはずなのに、
その声には
“選べたことそのものへの感謝”のような響きがありました。

母にとって
治療はつらさの象徴ではなく、
“生きる意思の証”
なのだと気づいた瞬間でした。

私は胸の奥にあった重さが
すこしだけほどけていくのを感じました。


夕暮れの色が、いつもより優しく見えた

帰り道、
車窓の外には赤と金色が混ざり合うような光が広がっていました。

母は窓に映る景色を見ながら、
小さく微笑んで言いました。

「秋の夕方って、なんだか落ち着くわね。」

その言葉を聞いたとき、
私はふと気がつきました。

今日がどんな日であったとしても、
母の口からこぼれたのは
“不安”でも
“恐れ”でも
“怒り”でもなく、
ただ季節を味わう言葉だったのだと。

病気を抱えながらも、
母はちゃんと
今日の景色を見ている。
今日という日を生きている。

そのことが
胸にじんと広がるような、
静かな安心につながりました。


少しだけ前を向けた帰り道

家までの道のりは、
行きよりもずっと短く感じました。

母は、
次の通院日や薬のことを
淡々と話したあとで、こう言いました。

「できるだけのことをやっていきたいね。」

それは大きな決意ではなく、
叫ぶような力強さでもなく、
ただ
“今日を積み重ねていく”
という静かな前向きさ。

夕暮れの色と母の声が交じり合い、
胸の中に
柔らかな灯がひとつ灯るようでした。


その灯は、帰宅してからも消えなかった

家に着く頃には空は深い藍色になり、
母は助手席からゆっくりと降りると、
小さく背伸びをしました。

その姿を見て、
私は思いました。

「結果ではなく、今日の母の表情のほうが、
 よほど大切なのかもしれない」

治療がどう作用するのかは誰にも分からない。

でも、
夕暮れの帰り道で見た母の微笑みは、
確かに前を向いていました。

その事実が、
この日のもっとも大きな救いだったのかもしれません。


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