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第26話|薬の副作用のゆらぎ——良い日と慎重な日のあいだから
抗がん剤を継続する中で、
はっきりと「副作用が辛い」と分かる日よりも、
言葉にならない小さな違和感のような日が
実は多かったように思います。
元気そうに見えても、
どこか動きがゆっくりだったり、
表情に疲れが差す瞬間があったり。
その揺らぎは、
「体調の波」というよりも
“生活そのもののゆらぎ”に近いものでした。
良い日の母は、生活に軽やかさが戻る
良い日の母は、
午前中の光に背中を温められながら、
いつものように洗濯物を干し、
新聞を読み、
庭の草花に話しかけるように水をあげていました。
動作の端々に“母らしさ”が戻り、
その姿を見ているだけで
部屋の空気が軽くなるようでした。
そんな日は、
午後にも庭の手入れをしたり、
「夜ご飯は何がいいかしら」と
小さく言うこともありました。
一日の中にしっかりと“生活の息づかい”が戻る日。
私はそんな日の母を見るのが
とても好きでした。
慎重な日は、生活の中の“速度”が落ちる
一方で、慎重に過ごす必要がある日もありました。
新聞は読むけれど、ページをめくる速度がゆっくりになる。
庭に出ようと椅子から立ち上がっても、
途中で「今日はやめておこう」と座り直す。
味噌汁を作る動作も、
まるで具材の重さを確かめるかのように慎重になる。
そのひとつひとつは、
医療用語で説明できる“副作用”とは違って、
生活の音の中にそっと紛れ込むような変化でした。
外から見れば分からないかもしれない。
けれど毎日そばにいる者には、
その“わずかな揺らぎ”が
とても大切なサインに感じられるのです。
副作用は「症状」だけではなく、生活の輪郭も揺らす
薬が身体にどう作用しているかは
検査や数値で分かることもあります。
けれど母の生活に現れる副作用は、
数字では測れないものでした。
歩く速度、
声の張り、
座ったときの姿勢、
味噌汁の味つけの濃さ。
そういう日常の輪郭の中に
静かに現れては消えるもの。
私はその揺らぎを、
“生活そのものの呼吸”のように感じていました。
生活の波に合わせて寄り添うということ
良い日は、母の動きに合わせて
買い物に行く予定を決めたり、
一緒に味噌汁を作ったり。
慎重な日は、
予定を少しだけ先に回し、
椅子に座ったまま話せることを選ぶ。
副作用と向き合うというのは、
“症状を管理する”というよりも
“生活のリズムを整え直す”
という行為に近いように思います。
この頃の母は、
良い日には前へ歩き、
慎重な日にはゆっくりと立ち止まりながら、
それでも確かに
“今日”を生きていました。
その姿に寄り添う日々は、
母の病気と向き合う時間であると同時に、
母の“生き方”に触れる時間でもありました。
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