目次
第13話|薬の調整と副作用——小さな変化が生活全体に広がる
退院の日に告げられた現実——「取り切る手術ではなかった」という言葉
母が退院する日の朝、
主治医から静かに説明がありました。
「今回の手術は、がんを取り切る性質のものではありません。」
消化するのに時間がかかる言葉でした。
手術というものは「治す」ために行うもの——
どこかでそんなイメージを抱いていた私たちは、
その説明を前にただ静かに頷くことしかできませんでした。
母も同じように、
深く息を吸い込みながら
医師の言葉を受け止めているように見えました。
しかし退院の日は、
その言葉をゆっくり咀嚼するにはあまりにも慌ただしく、
家に帰る準備と新しい生活の段取りに追われていきました。
けれどあの説明は、
母の今後の治療と生活を考えるうえで
確かに“はじまりの言葉”でした。
診察室での静けさ——母が治療を選んだ瞬間
そして、退院からしばらく経った日のこと。
母は再び大きな病院へ向かいました。
退院後、初めての診察です。
この診察で、
“今後の治療方針”について
具体的な説明が医師からありました。
提示された道は、大きく2つ。
1. 抗がん剤を中心に治療を続ける道
(必要に応じて点滴や追加治療を組み合わせる)
2. 副作用や年齢・体力を考え、生活の質(QOL)を優先する道
医師は、どちらが正解とも言わず、
慎重に言葉を選びながら
母の考えを待っているようでした。
診察室にはゆっくりとした時間が流れ、
私たち家族は母の横顔を見守りました。
沈黙が長く続いたあと、
母は静かに言いました。
「治療をしたいです。よろしくお願いします。」
その言葉は細いけれど、
まっすぐに伸びているように思えました。
医師は母の意思を確かめるように
「わかりました」と返し、
その瞬間、治療の方針が決まりました。
抗がん剤の説明——生活のリズムが変わると知った日
母の決断のあと、
医師は薬について説明を始めました。
-
2週間服用 → 1週間休薬
-
この 3週間が1クール
-
3週間ごとに通院が必須
-
血液検査で慎重に数値を確認
-
副作用によって調整の可能性
薬はただ飲むものではなく、
母の生活そのものを形づくる “基準” になるのだと
このとき初めて知りました。
退院時の説明と、
この日の母の決断。
そして薬の詳細——。
3つが静かにつながった瞬間でした。
薬とともに始まった新しい日常
家に帰ってからの母は、
薬のサイクルに合わせて体調が揺れるようになりました。
飲んだ日の重だるさ、
休薬週のわずかな軽さ、
食欲の波、
眠気、
集中力の変化——。
その一つひとつが
母の生活の輪郭を少しずつ変えていきました。
最初のうちは、
想像していたほど強い副作用が表面に出てこないことに、
私たち家族はほっとしていました。
けれど、その安心は長く続きませんでした。
日を追うごとに母の食欲は静かに落ち、
食卓に座ったときの表情に
ゆっくりと影が差していくようになりました。
そして何より、
これまでほとんど涙を見せたことのなかった母が、
ふとした瞬間に目を潤ませるようになったのです。
言葉にならない不安や、
体の奥で起きている変化が、
母の中で少しずつ形を変えて
表に現れ始めている——。
その気配に気づくたび、
薬との新しい日常が始まったのだと
私たちは静かに受け止めていきました。
さらにこの頃から、
母は食欲が落ちているにもかかわらず、
食事に対する要望だけは以前より強くなっていきました。
「今日はあれが食べたい」
「やっぱり違うものがいい」
母なりの“いつも通りの生活”を
保とうとする気持ちだったのかもしれません。
でも、
せっかく作ってもほとんど手をつけずに残されてしまう日が続くと、
母のしんどさを理解しつつも、
私たち姉妹の心と体にも
少しずつ疲れがたまっていくのを感じ始めました。
食卓の湯気と静かな食器の音の中に、
母の変化と家族の疲れが
少しずつ溶けていくような時間でした。
← 第12話|訪問診療をお願いした理由——病院から“医療が家に来る”へ
第14話|食事の工夫と母のこだわり——日常に戻したい“母の味” →

